現代美術に遊んでもらってる感覚
美術館に行くのが、すきだ。
(掲示パネルの1部を抜粋)
誰でも絵を書いたり彫刻をつくったりしてきました。おとなの誰かに「ピカソの絵がわかる?」と聞いてみてください。わかると言う人は少ないと思います。どうやら芸術はわからないのが自慢みたいです。なんでそんなことを言うのでしょう。こうやって仲間とつるんで、意見を合わせることはおとなにとって世の中(世間)を知っているということなのでしょう。そんなおとなたちにとって勉強とは世の中にじぶんをうまく合わせるためにするものなのです。そしてそれがができるひとには「きみはおとなだね」というのですね。芸術を鑑賞することがとてもにがてなおとなが多いのは、たとえば絵をみることがきっと、おとなであるはずの自分をとっても不安にさせてしまうものだからです。どうしてかというと芸術は1人で感じるところから始まるからです。ですから、おとながおとなでいられなくなる。
絵を書いている時、美術作品を見るとき私たちはいろいろなことに気づき、感じるものです。けれど、それはまず自分だけが感じるものであり、それを他の人が感じているのかすぐに確かめる事はできません。それを他の誰かに伝え得ることも簡単なことではありませんそれが芸術の難しさであり、自分だけが感じている事は何なのかそれを突き止めようとすることが芸術のおもしろさです。
あらかじめ答えが決まっているわけではありません。誰もが答えを知っているわけでもありません。でも答えはきっと見つかるはずきっと という自信を芸術を教えてくれるものでした。美術館は人が誰もいなくても話していなくても、ホントはとても賑やかな所だ。作品と作品はどこか目配せをしあい会話をしているようです。
美術館で作品を見ることはそこで絵たちが既に話している話題に参加することです。そのおしゃべりの仲間に入ることです。だから1人で見ていても日は決して1人きりではありません。もうすでに大人たちがいなくてもお話が始まっているからです。独り言のように感じられたおしゃべりは、必ず大きな話につながっていくものです。
こども限定展示という挑戦的なことをしていた。
わたしは大学生なのでみれない(バリケードで見えなくなっている)
角を曲がると違う作品の展示に(ここからはこどももおとなも一緒)
このような伝えたいメッセージによって空気がグッと変わるようなあの体験が結構すきだし、目に入った作品が言語化できないハッと息が止まるようなに出会う体験はたのしいし、「なんかよくわからないな、でも気になるな〜」と思った作品を見る時はタイトルから作品の意味を見つけようとしたり 作品からタイトルを妄想してからタイトルを見るような遊びをしている。